吉原謙以知
去る4月30日から5日間、筆者と弊社島村正、それにブリコン・ジャパンの川上俊一の3名は、手分けして東北の被災地を視察した。
それは第一に、被災者を応援する輪が世界に広がっていて、それを被災された我ら鳩仲間に伝えることで少しでも励みにして貰いたい、第二に弊社チャンピオン商事として何らかの対応もしたい、そしてこれら全てを復活の糧にして貰いたいということであり、第三には同地の実情を、一日も早く、正しく把握することが、今後の日本鳩界の立ち直りの為にも急務であると考えたからである。
ここに写真を添えてレポートしたい。
今回の未曽有の震災については、世界中で報道され、我々のパートナーであるヤン・ヘルマンス氏の主宰するド・ダィフ紙の報道を通じても、同じヨーロッパの多くの鳩仲間から支援の申し出があった。
また企業パートナーであるナチュラル社からは500羽の鳩の支援が申し出られた。更に日本全国各地の鳩仲間からも同様の申し出が多く寄せられた。
しかし死者行方不明者の数が3万人近くにのぼり、助かった人々も多くは避難所生活や仮設住宅生活を強いられ、なおかつ働けない状況では、鳩を送られても受け入れられる状況ではない。
そこでヨーロッパからの好意は、インターネット競売による現金での支援という形で受け入れ、それらを
1)家屋を流失した人々。
2)2親等以内の同居家族を失った人々。
3)原発等の影響で元の家に住めない人々にお配りする。
チャンピオン商事としては、それより被害が軽度の、年内に鳩レースを再開したい希望のある人々を対象に、取扱商品の中から鳩舎建具と飼育用品をお1人あたり商品価格で3万円を限度に無償でおくらせていただくプロジェクトをスタートした。
しかし鳩界人による鳩界人支援ということに関しては、まず実情を正確に把握する必要があるが、誰も全域を廻っていない以上、各地域の実情が断片的にしか伝わってこない。
また前記プロジェクトを各地域に伝達し、またその対象となる人々の実数をいち早く把握する必要性から考えて、我々自身が今回の東北行を行い、自分の目で見、聞き、眺めた上で判断する必要があったのである。
そしてこの旅から、我々は多くのことを学ぶことが出来た。東北行きの初日、我々は東北自動車道を北上したのだが、まず白河から北では、地震による路面の傷みに直面した。
最近、震災の被害の少なかった地域、レースを1日でも早く再開したい地域では、色々と取りざたされている。例えば秋からは西コースのレースにするべきであるとか、また東北地区でも北コースを飛ばそうとか、或いは福島原発の上空を鳩が飛ぶのは心配であるとかである。

東北自動車道須賀川IC付近
ご意見はいろいろあろう。しかし実際問題として、鳩レースを放鳩地に輸送する際、放鳩車が東北地域を通る場合、今後は中通りか裏日本しか道が残されていないのが現実である。
もし福島原発の上空を鳩が通過するとしたら、それは茨城、千葉両県の海よりの鳩が北コースからレースを行うか、または宮城県南東部の人々が(現実には壊滅状態に近い)、真南から飛ばそうとした場合しかない。
多くの場合、東北自動車道を利用するしかないのだが、この東北道の路面の傷みが激しいのである。もちろん今は通れるが、応急処置の為路面がデコボコしているのである。
そんな中を輸送される鳩の疲労を考えると、筆者としては、もし北コースのレースを行うなら、白河以北からの放鳩の場合、是非現地一泊の翌日放鳩をお勧めしたい。放鳩地到着直後の放鳩では、帰還率がかなり低くなろう。(あくまで現時点での感想です。)
東北行初日、我々は須賀川、福島、角田の各市を訪問した。また帰り道では、保原町、飯野町の取引先や愛鳩家6軒を訪れた。浜通りは通行出来ないからである。
ここでの(福島県中通りの)印象を以下にまとめる。
中通りの各鳩舎の物理的被害は軽微である。これは宮城県岩手県にも当てはまるが、家屋や鳩舎の損壊は、浜通りの10分の1以下かも知れない。その被害は、地盤の強弱によることが多く、一般的に顕著なのは屋根瓦の損壊である。また家屋の壁のひび割れ等である。ここで軽微と書いたのは、それでも大抵の方がまだ自宅に住めるからである。

宮城東部連合会石森さん宅と鳩舎
また当初のライフ・ラインや給油、鳩の餌の輸送といった問題も既に復旧している。
但し、福島第一原発からの放射能漏れに対する心配は、軽くない。福島市や保原の人々は、1時間以上屋外にいないように市から要請されている。この精神的不安や苦痛は察して余りある。
それから今回の震災は、地震、津波、原発の他に風評被害が深刻であるが、この風評被害を最も被っていたのが福島県や茨城県の農家であった。
次に浜通りの愛鳩家であるが、直接どなたともお目にかかることが出来なかった。その為、浜通りの人々と親しい人々に、連絡を取れる範囲でとって頂くようお願いする他なかったのだが、それはかなり多くの方が既に被災、或いは避難されており、しかも避難場所もバラバラだと推定されたからである。
実情を把握出来ないのはもどかしいが、とにかく今回の震災で、最も困難な状況におかれ、なおかつ組織としては壊滅状態に陥ったのが、同地域である。
翌日、我々は宮城県各地を廻った。亘理、名取、仙台市若林区他各市内、塩釜、そして大崎(旧古川市)、それに3日目、4日目の石巻市や登米地区、仙台市内避難場所で、合計17名の方々とお会いすることが出来た。
特に被災の程度が激しかったのはやはり沿岸部で、特に亘理から若林区にかけての沿岸部や、塩釜や石巻といった地区である。
我々がかろうじて通行出来た大船渡、陸前高田(以上岩手県)、気仙沼、石巻、或いは仙台市南東部の状況は、正しく言語に絶する。
驚天動地とか、筆舌に尽くしがたい、とかの表現はこのような状況を指すのであろう。テレビを通じてある程度は事態を頭の中で理解していたつもりでも、現場に立つ、或いは立ち尽くすとまるで違う。360度、しかも遠方までが瓦礫の山である。
私は戦後生まれであるから見たことはないが、東京大空襲の後の焼け野原の東京というのが、これに近かったのではないだろうか。
恐らく自衛隊、米軍その他消防、ボランティアをはじめ多くの組織の手によって、この50余日間には相当状況は改善されたのであろうが、それは主な道路が通れるようになっただけであり、持って行き場のない瓦礫やゴミの山、加えて被災した車や船の残骸はまだ多く残ったまま手つかずである。

岩沼連合会木村孝男さんの命を最後に守った資材置き場

車ごと流され、この中で気を失っていたという。車はいまだ取り出せない。

以前自宅があった場所に立ち、鳩舎があった場所を指さす木村さん

無残に折れた電柱、このような光景も決してめずらしくない。

気仙沼市から南三陸町へ伸びる45号線

街の復興を阻む巨大な漁船、周辺は立入禁止区域となっている。(気仙沼市)
これら瓦礫の山を片づけるだけでも、果たして年内に終わるだろうか。
我々が訪れた仙台市若林区の避難所には、今でも8名の会員が避難していながら、震災後50日以上を経過した現在、なお仮設住宅が抽選であたるメドもたたず、更に元自分の家があった地区では、家を再建すること自体が禁止されているような過酷な状況におかれている。
今回のヨーロッパからの支援については、前述したように家を失くされた方と、家族を失われた方々を対象とさせて頂く予定だが、その両方に該当する方々は、全てこの沿岸部の方々である。
ところが仙台でも山側、或いは中通りの地区の人々の多くは、この秋からでもレースは再開出来る状況である。そしてこれは福島、宮城、岩手の各中通りの人々の意見であるが、是非レースを行って貰いたいという要望も強い。
2日目、3日目には、千厩、一関市、大船渡、それに陸前高田の岩手県を廻り、4名の方にお会いすることが出来た。(他ブリコン・ジャパンの川上氏が4名)
印象としては、全般的に宮城と同じく山側が無事、沿岸部の被害が大きい点。そしてどの地区も共通して何らかの線を境にして東西に明暗が分かれた場合が多いことである。
例えば宮城県でいえば仙台東部道路や三陸道であったり、或いは鉄道や堤防であったり。それらの東側に住んでいた方々は、特にお気の毒としか言えない。
最後に、そんな中にも我々を喜ばせた希望の光ともいうべき話を幾つかお伝えしたい。大船渡では、道下千尋氏(ニュー三陸連合会)が沿岸部ではあったが、難を逃れた。彼は、避難所で難を逃れた多くの人々が、見ず知らずの人の為、遠慮しているのを無理にでも自分の車に乗せて、自宅で入浴させてあげたり、ボランティアで来ていた外国人に食事の世話をしてあげたそうである。
岩沼市では木村孝男氏(岩沼連合会)が被災し、奥様と4人の息子さんのうちお1人のお2人を亡くされた。そして家、自宅の鳩舎とも跡形もなく失ってしまい、最近ようやく仮設住宅がきまったが、狭いために残った3人の息子さんのうちの2人しかそこに住めない。そこで本人は未だ残った岩沼市内の鳩舎のソファで寝泊まりしている。いわば失意のどん底であろう。そんな木村氏だが、震災直後に1600万円もの大金の入ったカバンを拾いながら持ち主が分かったので、謝礼を貰ってもよいのに全額お返ししたという。これがもし日本でなかったら、まず大抵返金はなかったであろう。
そして最後に仙台市若林区内体育館の避難所に二瓶保雄氏を訪問した時だ。同氏は、アイユー鳩飼料店のご主人であった夫人の三恵子さんを亡くされたので弔問でお訪ねしたのだが、同席された避難所の佐藤石治氏(宮城連合会・元若林区荒浜在住)は、今回の震災でご自宅を流失された上、危険であるが為に、目下新たにそこに住宅を建てることも禁じられている。
それにもかかわらず佐藤氏は、鳩を続けたいという強い意志を示された。
「自分が鳩を止めると、地元の鳩界の後に残った人たちさえ、やる気を失ってしまうかもしれない。今、自分は鳩を飼える状況ではないけれど、頑張りたい」
そして二瓶氏や亡くなられた大坂恵一氏の奥様さえもが、いつかは亡くなられた故人の遺志を継いで鳩を飼いたいという希望を示してくれているのである。

津波で家も鳩舎も失ったが前向きに今後を語る村井政勝さん(石巻連合会会長)

写真の橋げたの半分まで津波が押し寄せ、助けを求める人が乗ったままの家が引潮によって沖へ流されてく様を呆然と見るしかなかったという。(石巻・村井さんのアルミ船工場の目の前の海)

600体以上の遺体が発見された石巻門脇地区

同じく燃えてしまった石巻門脇小学校

いつ復旧するのだろうか?陸前高田の線路

荒野と化した陸前高田市街

以前どういう町であったか想像できないほど何も残っていない。

大船渡にて

大船渡にて

大船渡にて

大船渡にて

亘理にて

亘理にて

亘理にて

気仙沼にて